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 高校デビュー、という言葉がある。私はこの言葉が嫌いだ。水と油、磁石の対極みたいに、決して相容れることはない。馬鹿のすることだと思っていた。

 高校生になったからって、何が変わるわけでもないのに。どこまで行ったってその人の本質なんて変わったりしない。ずっとそう思っていた。
 その言葉がそっくりそのまま私の方を向いていたのに気づいた時には、もうすでに遅かった。新しい環境になったのに、友達もいなければ、大して成績が良いわけでもない。これじゃ中学生の時と変わらないじゃない。煌びやかなクラスメイトたちの中で、焦燥感と無力感が同時に襲ってきて。授業にも身が入らなくて、サボってばかり。
 一番馬鹿だったのは、もしかすると私なのかもしれない。
 だけどそんなある日、あなたは嵐のように現れて、独りぼっちの私を変えてくれた。何もかも攫っていくように、あなたは私の手を引いてくれた。この学校で、一番空に近い場所へ。

 お星様みたいな笑顔が私の目を眩ませる。あなたは、私の希望なんだ。



 穏やかな春風に髪を撫でられ、静かに微睡む。日陰の冷たいコンクリートのベッドが心地よい。
「――ちゃん、しーちゃん、起きろー」
「ひゃっ!?」
 そんな私の安眠は、やかましく騒ぎ立てる声に妨害された。突き立てられた指が、私の頬を丸くへこませる。
「しーちゃんってば、お昼寝にはちょっと遅くない? あと、学生証落ちてたよ」
「あ……返して」
 九重静流と記された学生証を受け取る。現在時刻を確認すると、針は二時過ぎを指していた。ちょうど五時限目終わりの休み時間だ。
「五限サボりな感じ?」
 彼女はいつものように私の隣に腰掛けた。
「うん……えと、まつりちゃんも?」
「そそ、あたしはこれから六限サボり。サボり仲間だー」
 にゃはは、といたずらっぽく笑う彼女。一居まつり。ひとつ上の先輩で、いつもこの屋上にいる人だ。そして、私をここへ連れ出してくれた張本人。不思議なことに、彼女といると笑顔になれる。
「まつりちゃんがいるなら、もう一回サボっちゃおうかな……」
「いいねー。お菓子持ってきたんだ、一緒に食べよ」
 普通じゃない、だけどとても心地良い日常が今日も始まる。

「でねでね、陽丘ってば授業中居眠りしててさ、怒られててめちゃくちゃ面白いの」
「へえ……」
 やることといえば、特に意味のないおしゃべりや、身内や友人の愚痴だったり。お菓子やお茶が出て、まるで小さなお茶会だ。
「しーちゃんは授業中面白いことあった?」
「えっ……私は……えっと」
 急な質問に言葉が途切れる。
「……その、ね。あんまり、授業聞いてなくて」
「ああ、そっか。ごめん、無神経だったね」
「ううん……」
 首を横に振る。上の空なのは私が悪いから。何とかしたいと思っていても、何ともならない。
「授業大変だもんねー。分かるよ、その気持ち」
「……ありがとう……」
 そんなつもりはなかったのに、無意識に溜め息が漏れ出た。
「なんか湿っぽくなっちゃったね。ほら、お菓子食べよ」
「うん……」
 私にクッキーを手渡すと、彼女はよしよしと頭を撫でてくれた。髪を梳く温かな手に触れていると、心だけじゃなくて全身までもとろけていきそうになる。体の緊張がほぐれて、思わず肩と肩がぶつかった。
「…………」
「ん、どしたの? 眠い?」
 今度は首を縦に振った。なんとなく、今はまつりちゃんに甘えていたかった。
「そっかそっか。膝枕してあげるよ、おいで」
 ゆっくりと、彼女の膝に頭を乗せる。お互いの体温が溶け合って、まるで彼女に包まれているような錯覚に陥る。
 ……このまま落ちちゃってもいいよね。二人だけのこの場所で、私は再びの眠りに落ちた。
 



 桜の季節も終わり、栗の花がかぐわしくなる頃。
 昼休みのチャイムが鳴るのに合わせて、すかさず階段を駆け上る。鍵の壊れた扉を開け放つと、いつもの顔が待ち構えていた。
「おっ、しーちゃん! 待ってたよー」
 まつりちゃんが元気よく手を振るのに合わせて、私も小さく手を振り返す。隣に座り込んで弁当の包みを開けると、彼女が珍しいものを見る目つきで覗き込んできた。
「しーちゃんは今日も手作り弁当なんだね。いいなー」
「うん……まつりちゃんは、コンビニ弁当なんだね」
「そーだよ。うちは仕事忙しいからねぇ。しーちゃん家が羨ましいよ」
 悪くはないけどね、と彼女は歯を見せて笑った。私からすれば、まつりちゃん家の自由さ加減も羨ましいけれど。
 弁当を食べ終えて一息つく頃、隣の彼女は今日の予定を確認するかのごとく呟いた。
「あー、そういえばそろそろ中間テストかぁ」
「うっ」
 不意に投げかけられた言葉で耳が痛い。そうか、中間テストなんてものがやってくるのか……。
 怪訝そうな目でこちらを見つめる彼女だったが、やがて私の声と表情の意味に気づいたらしかった。
「あ、もしかしてしーちゃん、自信ない感じ?」
「……授業……全然分かってない……」
 お恥ずかしながら。結局今の今まで授業を聞く気にはなれていなかった。
「どうしよ……」
 突然の事実に頭を抱えると、彼女は「何言ってるの」と得意げな顔をした。
「あたしが勉強教えてあげるよ!」
「……?」
 開いた口がふさがらないってこういう感覚なのかと思った。何言ってるんだろう、この人。サボりの天才みたいな人からそんな言葉が出るなんて予想だにしなかった。
「その……まつりちゃんって、勉強……できるの?」
「失敬な! これでも頭は良い方だって自覚してるもんねー。ま、授業はサボってばっかだけどさ」
 彼女は不満げに頬を膨らませて、鞄の底からくしゃくしゃになった数学の学年末テストを取り出した。そこには大きく九十五点、と書かれていた。
「わあ、すごい……ちょっと、見直したかも」
「ふふふ、もっと褒め称えろー……なんちゃって?」
 そう言ってとぼけてみせる彼女に、思わず私も笑みが零れた。
 そんなことをしているうちに、五時限目の予鈴の音が屋上まで聞こえてきた。
「もうこんな時間かあ。じゃね、あたしは五限出るから」
 扉の方へ向き直り、思い出したように振り返って一言。
「そうだ、今日の放課後空いてる?」

 微妙に硬い椅子に腰掛ける。周りは世間話やらの雑踏で満ち溢れている。ファミレスなんて来たこともなかったので、何もかもが新鮮だ。
「いいでしょー、ここ。あたしの行きつけなんだ」
 そして目の前にはまつりちゃん。半ば強引に手を引かれ、ここまでやってきたのだった。
 ドリンクバーとちょっとした料理を頼むと、彼女は私の方へ向き直った。
「さてと、しーちゃんは何の教科が駄目なのかな?」
「えっと……と、特に数学が……」
「数学ねえ。担任誰だっけ?」「そ、園田先生……」
「あー、園田かぁ……あいつ教え方が悪いから。あたしの方が千倍は上手く授業できるよ。めんどくさいけど」
 おおむね同意できる愚痴を吐いてから、彼女は私の取り出した教科書を開いた。
「よーし、一居先生の特別授業のはじまりはじまり~。ここはね――」
 そして数十分後。
「こっちからこっちが真のときは十分条件で、こっちからこっちが偽のときは必要条件。じゃ、これは?」
「えっと……必要条件だけど十分条件じゃない?」
「そうそう! しーちゃん、やればできるじゃん」
 まつりちゃんの指南の下、あんなに分からなかった数学が少しずつ分かるようになってきた。学校の授業なんかより何倍も楽しくて、分かりやすかった。
「そうかな……まつりちゃんの教え方が、上手いから……だよ」
「もー、褒めても何も出ないぞー? ほらほら、次行こ、次!」
 結局二時間ほどをファミレスで費やし、かなりの範囲を教えてもらったのだった。
 店を出たその足で帰宅すると、ちょうどまつりちゃんからのメッセージが届いていた。
『今日はありがと! よかったらさ、また勉強会やらない?』
 口元が緩んだ。何というか、初めて勉強していて楽しいと思えた。この喜びをまた味わえるのだとしたら――学校に来るのが、少し楽しみになりそうだ。
『うん。いいよ』……っと。次はいつできるかな。淡い期待を抱きながら、私は携帯の電源を切った。

 そうしてあっという間に二週間が過ぎ、いよいよ週明けに地獄の中間テストを迎えることになった。
「うぅ……緊張、する……」
「考えすぎだよー。しーちゃんは頑張ってるんだから絶対大丈夫だって! ほら、パフェ食べる?」
 いつもの勉強会、向かいに座ったまつりちゃんがスプーンを差し出す。それを頬張ってもなお、私の不安は消えない。
「だ、だって……赤点取ったらどうしようって思うと……」
「んー……まあ、最初はみんなそうかー。気負う必要はないと思うけどね」
「もちろん、分かってるけど……」
 厄介にも、こういう手の懸念というのは忘れれば忘れようとするほど余計に存在感を増すものだ。
 緊張が極限までやってきて、涙が零れてしまいそうになる。
「それってさ、勉強し直したら収まるやつ?」
「……たぶん」
 たしかに、参考書や教科書を眺めている間だけはこの不安は収まってくれている。といっても、半ば現実逃避に近いものだけれど。
 私の返答を聞いて、彼女は手を叩いた。
「よっし! じゃあ、合宿しよう!」
「……え?」
 開いた口がふさがらない。ここ最近で二回目の経験だ。
「ど、どこで……?」「決まってるでしょ! もちろん、あたしの家だよ!」
 何がもちろん、なのかは分からないけれど。私なんかが行ってもいいんだろうか。
「ほんとに、いい、の……?」
「おうともよっ! 歓迎も歓迎、大歓迎だよー」
 顔を綻ばせて、親指を立てた。その言葉を、少しだけ本気にしてしまいそうだった。

 自宅まで荷物を取りに戻り、両親に連絡を入れて家を出る。教えてもらった住所の先には、私の家とは似ても似つかないほどの大きな家だった。
「すっごい……」
 気圧されそうになりながらもチャイムを押すと、すぐさままつりちゃんが顔を出した。
「お、お邪魔します……」
「いらっしゃーい。こっちこっち」
 誘導されるままに彼女の背中を追う。辿り着いた彼女の自室は、私のそれの一回りくらいは広いんじゃないかと思った。
「す、すごいね、この家……」
「まあねー。っていっても、あんまり自慢するようなことでもないけどさ」
 彼女から聞いた話によると、両親は医大に勤めており、その関係で顔を合わせることが少ないらしい。
 家が大きいのも、それだけのお金があるからだそうだ。夫婦揃って医者となると、結構高給取りなんだろうなあ……。
「ま、大きいだけで住む人もいなけりゃ呼ぶ人もいないんだけど」とは彼女の言。
「……さてと。気を取り直して、改めて合宿の始まりだよっ。二泊三日、ビシバシ指導しちゃうからね」
「……うん。よろしくお願いします」
 それからは、たしかに親は帰ってこなかった。勉強もほどほどに、二人でご飯を作って、二人でお風呂に入って、二人でベッドに入って。進学してから、こんなに楽しいことがあっただろうか。
 彼女といると心が温かくなる。それは気のせいなんかじゃなくて、彼女の笑顔がそうさせるのだろう。魔法みたいな笑顔だ。
 おやすみなさいと笑って、部屋の電気を落とした。

 翌日、私が目を覚ますと、隣にまつりちゃんの姿はなかった。
「……どこ行ったんだろう」
 とりあえず一階の台所まで降りると、探していた彼女がエプロン姿で立っていた。
「ん、おはよ。ご飯作ってるから、ちょっと待ってて」
「おはよう……まつりちゃん、早いんだね……」
「まあねー。生活サイクル、ってやつ?」
 勉強もできて料理もできて、おまけに規則正しい生活で。なんだかスーパーマンみたいな人だ。すごいなあ。何も取り柄のない私にとっては、彼女が羨ましくて仕方がない。
 朝食を食べ終わると、すぐに勉強の続きが始まった。
「――で、古代オリエントにはいろんな都市国家があって。中でもウルクは一番大きかったの。そこでは暴君であり賢王でもあったギルガメシュが統治していて、彼の唯一無二の親友だったエンキドゥと様々な冒険を繰り広げるの。そのエピソードがギルガメシュ叙事詩に纏められていて、それで、あと――」
「ちょっ、しーちゃん、ストップ!」
 数時間後、世界史を勉強しようと言い出した私の口は止まることはなかった。だって古代史なんて、アニメやゲームにおける格好の題材なんだもの。興奮が止まらなくなっていた。
「あっ……ごめん」
「別にいいよー。しーちゃんがそれだけ熱くなるの、初めて見たし」
 うぅ、結構恥ずかしい……。さっきまでの語りの情熱が、一気に頭のてっぺんに収束するのが自分でも感じられた。
「それだけ何かに興味を持てるって、すごいと思うな」
「そ、そうかな……」「そうだよ! しーちゃん、えらい!」
 反論したくても、頭を撫でられると思うように言葉が出ない。まつりちゃんのこういうところがずるいと思う。
 彼女の掌に屈していると、どこからかカエルを踏みつぶしたみたいな情けない音が聞こえてきた。彼女の視線がこちらへ移る。
 ただでさえ恥ずかしいのに、どうしてこれ以上恥をかかせようとするのですか、神様。
「……うぅ」「あはは、ちょっと休憩しよっか」

 またもや作ってもらった昼食を食べ終わり、二人並んでベッドに横たわる。
 時々触れる彼女の肌の熱を感じていると、少し聞きたいことが浮かんできた。
「……ねえ、まつりちゃん」「なあに?」
「まつりちゃんは、どうして私にここまでしてくれるの?」
 彼女にとって私は、偶然出会った他人にしか過ぎないはず。私がいなくたって何ら問題なんてないのに、どうして自分のことのように世話を焼いてくれるのだろう。それがずっと気になって仕方がなかった。
 私の問いを聞くと、彼女は悩むこともなく返した。
「そんなの簡単だよ。だってあたしたち、親友じゃん?」
「親友……」
 あまりにも単純な回答だった。たったそれだけの理由が、彼女の動機なのだった。
 それが当然であるように話す彼女に、私はいつの間にか魅せられてしまっていた。
「そっか、親友かあ……なんか、嬉しいな」
 少し安心したところに、大きな欠伸がひとつ。慌ててそれを噛み殺して、取り繕う。
「眠いなら寝てもいいよ? 最近のしーちゃん、よく頑張ってたし」
「……いいの?」
 無言で頷き、包容するような優しい笑顔を見せる彼女。それじゃあ、お言葉に甘えて。まぶたを閉じ、温かな暗闇へと降りた。
「おやすみ、しーちゃん」

 迎えた中間テストでは、復習した問題がことごとくテストに出題され、面白いくらいに高得点が取れた。
 そのことをまつりちゃんに伝えると、やはり自分のように喜んでくれ、大きなパフェを奢ってくれた。
 最初は不安の多い高校生活だったけれど、彼女との出会いからそれは大きく形を変えた。隣にいてくれる彼女は、もう既にかけがえのない大切な親友になっていた。
 彼女がいてくれる限り、私に不安はない。そう思っていた。

 ずっと、そう思っていたのだけれど。



 それは五月もたけなわ、すぐそこまで夏の迫り来る音が聞こえる頃のことだった。
 いつものように二人で授業を抜け出して、屋上で二人の時間を過ごす。
「いやー、あっついねー」
「うん……むしむしする」
 半袖になった制服をパタパタと仰ぐ。熱をよく吸うコンクリートまみれの屋上は、名状しがたい熱気に包まれていた。
「テスト終わったし、しばらくはゆっくりできるねー」
 彼女はそう言って笑う。流れた汗が日射しを受けて煌めいた。
 授業時間も半分ほどを過ぎた頃、彼女は変わらない唐突さ加減で言葉を発した。
「そういえばね、しーちゃん」
「ん、どうしたの?」
「今度さ、どっか遊びに行かない? あたしが奢ってあげるからさ」
 これまた急な話だ。もはや呆れるのは恒例行事だったけれど、今回は私の反応も違った。
「うん……いいと思う」
 まつりちゃんと遊びに行けると思うと、無性に心が躍るのを感じた。
「よしよし。んじゃ、どこがいいかな――」

 そして週末を迎える。駅前で待ち合わせて、近くの町のアミューズメント施設へ向かう予定だ。予定時間五分前に待ち合わせ場所に着くと、既にまつりちゃんが待ち構えていた。
「おっ、しーちゃん。早かったね」
「まつりちゃんの方こそ……」
「そうかな? それはそうと、しーちゃんってばおしゃれじゃん!」
 私の服について言及されて思わず赤面する。特別な日ということでいつもと違う趣味の服を着てみたのだけれど、気づいてもらえて少し嬉しくなった。
「ま、まつりちゃんだっておしゃれだよ……」
 褒められたのはよかったけれど、ちょっと恥ずかしすぎる。照れ隠しに顔を伏せた。
「でしょでしょ。じゃ、行こっか」
 電車の揺れる音を座席から感じる。退屈な時間も、二人でいれば幸せに変わる。そうして一瞬のような時間を経て、目的地へと辿り着いた。
「へー、しーちゃんってカラオケ行かないんだ」
「うん……あんまり、行く人いないし」
「んじゃ、あたしはしーちゃんの特別になるわけだ」
「うん――えっ、ちょっと待って……!?」
 またこの人はすぐこういうことを言う――!
 むずがゆい気持ちで歌に集中できなかったりしたけれど、過ごした時間はとても尊いと思えるようなものだった。
 その他にも、ボウリングをやってみたり、ゲームセンターで初めてのことをやってみたり。気づけばもう太陽が沈み始める時間になっていた。
「ふぃー、今日は遊んだねー。楽しかったよ」
「私も……楽しかった」
 久しぶりにはしゃいで、笑い合って。くたくたになった体を引きずって、電車に乗り込んだ。
 線路の規則的な振動が眠気を誘う。軽く微睡もうとしたその時、まつりちゃんが不意に声を漏らした。
「あ、そうだ」
「ひゃっ!? ど、どうしたの?」
 眠気からサルベージされて、思わず肩が跳ね上がる。
「そういえばさ、しーちゃんに言わなきゃいけないことがあったんだった」
 今思えば、どうしてこんなタイミングだったんだろう。これ以上ないくらいの幸せのさなか。普段通りの仕草。普段通りの笑顔。そこから、残酷なまでの事実が放たれる。

「実はさ、あたし。留年しちゃうかもしれないんだよね」

「え……?」
 自分の耳がおかしくなったのかと思った。もちろん、現実にはそんなことはないというのは分かっている。
 あんな生活をしている以上、いつか壁に突き当たるというのは分かっていた。それでも、私の思考回路が理解するのを拒んでいた。
「嘘……だよね?」
 お願い。嘘だと言って。そしてまた私を笑わせて。
 でも、私のそんなちっぽけな願いが叶うはずもなくて。
「あたしがこんなくだらない嘘ついたことある?」
「…………」
 首を横には振りたくなかった。何も言えずに、ただ沈黙を貫き通す。
「ちょっと担任に脅されちゃってね。このままだと留年だぞーって」
「……そう、なの」
 それを受け入れるには、私の覚悟はまだ足りなかった。
「ま、ちょっとは真面目になりなさいってお告げなのかもね」
「……そっか。頑張ってね」
 私にそれを止める権利はない。できることといえば、彼女の背中を押すぐらいのことだった。

 違う意味でふらふらになって帰宅する。自宅の硬いベッドに倒れ伏し、ぼんやりと考え事にふけった。どうしよう、なんて漠然とした言葉が漏れ出た。
 もう彼女のいない学校生活なんて考えられなくなっていた。あの屋上をベース基地にして、どこへ行くにも彼女が一緒で。その彼女が隣からいなくなってしまうかもしれない。今まで感じたこともない恐怖に、私は打ちひしがれそうになっていた。
「……やだよ……」
 涙が零れそうになる。私はこの孤独に耐えることができるのだろうか。
 分からない。何もかも見通せない。いきなり盲目にされたような気分だった。

 しかし、それでも彼女は授業を抜け出しては屋上にやってきていた。自分が危機的状況にあるにもかかわらず、私といる間は変わらず無邪気な笑顔を見せている。
 それとなくなぜここにいるのかを問いかけても、適当な言葉ではぐらかされるばかり。彼女は何も話してはくれない。
 そんな悩みを抱えつつも、二人の時間が過ぎていく。
「しーちゃん、最近調子どう?」
「えっと……別に、普通だけど……」
 突然の質問に戸惑ってしまった。最近は特に良くも悪くもないけれど。
「そっかそっか。ほら、しーちゃんってば変なところが生真面目だからさー。ちょっとしたことで悩んじゃうんじゃないかって心配になってさ」
「…………」
 ただ今現在進行形で悩んでるんだけどなあ。そんな私の思考回路なんて知るよしもなく、呑気に笑う彼女。
「無理しちゃダメだぞー? ほら、よしよし」
 親が子に語りかけるような口ぶりで、わしゃわしゃと髪を掻き乱される。思わず悩みが誤魔化されそうになる。
「……戻る気、ないの?」
 改めて問うてみる。対する彼女は、懲りない様子で呟いた。
「うーん、めんどくさいしなあ」
「……そう」
 あれ。何だろう、この気持ち。私はこんなに彼女にも憧れていて、こんなにも彼女を尊敬しているのに。お腹の底の方から、黒く醜い感情が湧き出る。
 怖い。私が彼女に対して、こんなにも最低な感情を持ちうることが。止めたいと思っているのに、蓋をしても隙間から溢れてくる。
「どしたの、しーちゃん? 具合悪い?」
「――ない――」
 血管が冒されるみたいに、その黒いものは全身に通って私を蝕んでいく。
 そして、砂上に成り立つ平穏は崩れ去る。

「ありえないよ! まつりちゃん、留年しちゃうかもしれないんだよ!? それなのに……なんで、なんでずっとここにいるの!? 私、格好悪いまつりちゃんなんて見たくないよ……!」

「……しーちゃん」
 憧憬が、嫌悪に変わった瞬間だった。
「まつりちゃんは勉強もできて料理もできて、おしゃれだし可愛いのに……なのにっ」
 この想いをせき止めておくための栓は、とうの昔に壊れて飛んでしまった。もう止まらない。間欠泉が噴き出すみたいな、そんな勢いで言葉が止まらない。
「私は……こんなに、まつりちゃんに憧れてるのに……大好きなのに……!」
 だけど、言葉が出尽くす前に感情の方がオーバーフローしてしまった。これ以上はここにいられないと思った。このままだと、辛い気持ちだけが積み重なるのみだ。
 泣き顔を隠すようにして踵を返し、最後にひとつ「……ごめん」とだけ言い残して、逃げるように去った。

☆ ☆ ☆

 虚無。今の私を言い表すにはそれだけで十分だった。私の勝手な欲望を全部ぶちまけた結果、後には何も残らない。
「……なんであんなこと言っちゃったんだろう」
 布団を被って自分の行いを懺悔しても、今となっては何もかもが遅い。
 もう嫌だ。許せない。自分の愚かさが、単純さが、幼稚さが。全てが私の心を切り刻み、何も考えられなくなる。ただ感じているのは、広大無辺な自己嫌悪のみだった。

 次の日から彼女は屋上に来なかった。前より広く感じる屋上で昼食を食べ、時々授業を抜け出して。いつも通りの生活なのに、彼女がいないだけでこんなに寂しく感じるなんて。
「……」
 昼下がりの屋上は恐ろしいほど静かだった。聞こえるものといえば、車の排気と体育の授業くらい。静寂は孤独をさらに増幅させた。
 独りでいると、入学したばかりのことを思い出して泣き出しそうになる。あの時は孤独で寂しくて仕方なかった――そして、今も。
 この高校に来て、せっかく繋いだ関係だったのに。それを自分から切ってしまうなんて、やっぱり私は馬鹿だ。私に友達だなんて、結局向いてなかったんだ。
「……ぐすっ」
 目蓋から滴がひとつ、頬に筋を作ってコンクリートを染める。悔しさ、情けなさ、自分への怒り――その全部がない交ぜになった涙だった。
 これからのあてもなければ、当然のごとく教室に戻れるわけでもない。空っぽになった私を、二つの事実が板挟みにしていた。
「もう……やだよ……」
 自分が許せなくて、ただひたすらに声を抑えて泣きじゃくる。その時、床を叩く硬い音が聞こえた。
「え……?」
 ありえない。私は耳を疑った。でも、その音は規則性を伴って、だんだん大きくなっていく。
 かつん、こつん、かつん、こつん。私、知ってる。この足音、このリズムを。誰よりもすぐそばで、今までずっと聞いてきた音だ――!
 かつん。すぐ近くでその音は止まった。そして、私の視線の先。半開きになったドアの向こうから、よく見慣れた栗色の髪が顔を覗かせた。
「やっほ、しーちゃん。元気?」
「っ――!」
 彼女の姿を認めた時、私は息が詰まってしまうんじゃないかと思った。それほどまでに、声も髪も瞳もその笑顔も、ずっと待ち焦がれていたものだった。
「なんで……ここに……」
 驚きのあまり、なんだか上手く言葉が出ない。そんな情けない私なのに、彼女はあの時と変わらない笑顔を向けてくれた。
「いやねー、しばらく考えたんだけどさ。やっぱり人は急には変われないなあって」
「うん……」
 私も、まつりちゃんも、結局変われずにここに戻ってきた。運命、なんて言い方をしたらくすぐったいけれど、これが偶然とは思えなかった。
「それとね」
 彼女はぴんと姿勢を正す。真面目な顔をして、その双眸が私を捉える。
「あの時、ひとりぼっちだったしーちゃんを誘ったのはあたしだった。何とかしてあげたいって思った。それは、今も……そうだよ」
「……まつりちゃん」
 後ろ手に隠した拳に力が籠もる。
「あたし、しーちゃんのこと放っとけないな。だって――」
 前髪をくるくると弄ると、彼女は照れたように笑った。

「――だって、親友だから」

「まつりちゃん……っ!」
 私は力を失って、へなへなと床に崩れ落ちた。得も言われぬ感情が溢れてくる。それに合わせて、涙も留まることをやめてしまった。
 だけど今の胸にあるのは、さっきみたいな悲しいものじゃない。それは確かに「幸せ」と呼んでいいものだった。
「もー、しーちゃんってばしっかりしなよ」
 袖で涙を拭う私を、まつりちゃんは温かく抱擁してくれた。
「だって……あんなこと言って、嫌われたって思った……もう会えないって、思ったから……!」
「大丈夫だよ。あたしはずっとここにいる。しーちゃんの隣にね」
 ただその熱量を感じていたくて、必死に彼女の制服を掴んだ。止めどない感情を受け止めてほしくて、胸に顔を埋めた。
 私の涙が収まる頃、私たちは二人並んでいつものように座っていた。お菓子を分け合い、普段と変わらない会話を交わす。さっきまでの出来事が悪い夢のようだ。
「回数は減っちゃうかもしれないけど、ちゃんとこうやって会いに来るからね」
「……うん。ありがと」
 それはすなわち、これからも一緒にいてくれるということ。その言葉がたまらなく嬉しかった。
 彼女に肩を預けると、彼女は伸ばした足にそれを乗せてくれた。見上げた視界に彼女の顔が映る。もちろんそんなことおくびにも出したりしないが、ちょっと恥ずかしい。
 私の髪を梳きながら「ああ、そうだ」と呟いたと思うと、彼女はとんでもないことを口走った。
「あの時、大好きって言ってくれてありがとね。あたしもしーちゃんのこと、大好きだよ」「っ……あれは、言葉の綾で……!」
 思わず飛び上がって、恥ずかしさが増幅された。
「えー、そうなの?」
「そうだよ! もうっ、変なこと言わないでよ……!」
 確かに好きだとは言ったけれど、そういう意味で言ったわけじゃない。からかうような目が私に突き刺さった。
 直視できなくて目を逸らしていると、授業終わりのチャイムが鳴り響いた。あ、と声を上げて、再び視線がぶつかる。
「授業、始まっちゃうね」
「……うん」
 すくりと立ち上がって、彼女はこちらを振り向いた。
「ま、いろいろあるかもしれないけどさ、とりあえずは頑張ろうよ。あたしも、しーちゃんも」
「うん……一緒、だね」
 差し出された手を握って、私も立ち上がる。彼女の掌は柔らかくて、温かくて、ずっと握っていたかった。
 まつりちゃんも頑張るのなら、私も少しだけ頑張ってみようと思えた。あの時とは違う。もしも今二人が離れたって、私たちには確固たる絆がある。これがあれば、どんなことだって越えて行けそうな気がした。
 今すぐには変われなくても、少しずつ、一歩ずつ。まつりちゃんと一緒なら絶対にできる。今までの思い出がそれを証明してくれていた。
「――よし、行こっか!」
 指を絡めて、階段を一歩踏み出す。二人分の足音は、私たちの未来を確かに刻んでいた。

「あー、でも、私留年しちゃってもいいかもね」
「えっ!? なんで!?」
「だって、しーちゃんと同じクラスになれるかもしれないし――なんてね」
「もうっ!」
 見上げた空は、青く青く澄み渡っていた。

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